用水の歴史

耕地整理~悲願の用水編<偉人達の活躍>

太郎馬写真

太郎馬写真

江戸末期は凶作が続き、各地で一揆や打ち壊しなどが発生し、貧困に悩まされていました。明治5年、先進性を持って自分の水田約5反の曲折した道路や畦道を改良し、直線状の水田区画にしたのが彦島村(現在の袋井市彦島)の「名倉太郎馬」でした。

水田を直線化することで、以下のように効果は絶大でした。

  • 耕作がしやすくなり、用水や排水がスムーズになる。
  • 除草もはかどる。
  • 風通しがよくなって病害虫の被害が減少する。
  • 肥料の分解が進むため作物の成長が良くなる。
  • 肥料や収穫の運搬が楽になり、収穫量も向上する。


これを見た村人は驚き、太郎馬の指導のもと、翌明治6年から明治8年にかけて村全体(約40町歩)で耕地整理を行いました。これが日本で最初の耕地整理であり、明治20年頃から鈴木浦八によって、この彦島村を手本とした耕地整理が「静岡式」として全国へ広まっていきます。

彦島の農地の変遷

彦島の農地の変遷

太郎馬は、同時に蟹田川(袋井市西域を南北に流れる川)の改修に乗り出します。
自ら田畑や道路などを測量し、計画案をまとめ、川幅を広げて掘り下げ、放流先を四キロ延長して太田川から原野谷川へ付け替えるという工事をやり遂げたのです。明治8年のことでした。
改修工事により周辺地域に起こっていた洪水などの水害は激減しました。このような河川改修や道路改良の公共工事と土地改良を一体的に行ったのは、全国で初めての例でした。

太郎馬は耕地整理だけにとどまらず、村人の生活改善から貯蓄や副業の奨励、資金の貸付なども行い、子どもたちへの教育にも尽力しました。また各地の老農から農法を学び、それを広げました。おかげで村の農業生産はようやく安定するのです。世の中がたいへんな不景気だったことを、彦島周辺の農民は誰も知らなかったそうです。

農業の近代化には、土地改良(水路や耕地整理などのハード的整備)と営農(耕作法、品種改良、経営などのソフト的進展)のふたつの側面がありますが、太郎馬は日本の近代化に先駆けてこの両面を成し遂げたのです。

一方、太郎馬の時代から遡ること約40年。この磐南平野にはある巨大な土地改良のプロジェクトがありました。
 江戸後期の幕府の役人「犬塚祐一郎」は、磐南平野の地形を調べ上げ、水が絶対的に足りないことを確信します。そして山を越えて天竜川の水を引こうという「社山疎水(やしろやまそすい)」計画を立てました。この計画は、天竜川に石製の水門を築いて取水し、寺谷用水の既設水路で導水、途中で分水してから社山隧道(トンネル)で磐南平野へ引くという計画でした。
当時にしては破天荒な考えで、彼は地元の人々を説得して回ったようですが、時期が早すぎたのか実現は見送られました。しかし、この「社山疎水(やしろやまそすい)計画」こそが、およそ一世紀半の長きにわたって浮かんでは消え、消えては浮かぶ夢見る計画となったのです。

新用水路開削願

新用水路開削願

社山

社山

この計画は幕末には数村の有志が幕府に上申し、許可が出るところまで来ますが、明治維新であえなく消滅。明治に入り、地元有力者が集まり推進を図りますが、浜松県の廃止によりまたも立ち消え。後の周智郡長、足立孫六らが調査をすすめ計画書を郡に提出するも、また郡区が変更になり立ち消えとなりました。

その後、発案から約50年後の明治16年、足立孫六が全区域を取りまとめ、県を経てようやく内務省の許可を得ます。

左:神田取水口 右:旧社山隧道

左:神田取水口 右:旧社山隧道

当時、国内では他にもいくつかの疎水工事が目白押しでした。その中でも最も難工事だったのが、この社山疎水でした。予想以上に地質が軟弱だったため、全部を石畳にするなど予算が膨れ上がったのです。それでも何とか国や県から助成を受け、工事は順調に進みました。

しかし、なんと設計に誤りがあり、工事は中止。設計は内務省でしたが、出口が数メートル高すぎたという考えられない失態でした。
組合では言い争いが続き、収拾が付かない大混乱となりました。そして、皮肉にも巷ではこんな唄が流行りました。

「社山 山のキツネにだまされて金は出したが水はコンコン」

悲惨な結果に終わった後、さらに追い討ちをかける天災が立て続けに起こります。明治26年には未曾有の大干ばつに襲われ、収穫皆無という村が続出。その後、明治43~44年と続いた大水害でも大打撃を受けます。明治43年には堤防決壊210ヶ所、十数の町村が濁流に飲まれ、翌明治44年には破堤730ヶ所、磐南平野でも広大な流域一帯が一面の泥沼化して人々を恐怖と絶望のどん底に落とします。

明治48年8月の豪雨による東海道本線崩落(井通村)

明治48年8月の豪雨による東海道本線崩落(井通村)
出典:「磐田の記録写真 第二集 磐田の産業」

しかし、これを機に行政の事業は一気に河川改修へと転換していきます。
巨額すぎる工事費が障害だった社山疎水。工事費の分担が可能になるということで財界からも水力発電の水を用水に使うという案が浮上しますが、経費の問題で夢ははかなく費えてしまいます。その後は寺谷用水とも協議を重ね、水利組合を結成。最も困難な利害調整を人望、胆力とも抜きん出た「江塚勝馬」が主事となり行いました。そしていよいよ県議会にて「磐田用水幹線改良事業」が可決。昭和4年の再出発でした。
国庫補助を受けいよいよ軌道に乗るかと思えた矢先、昭和16年、太平洋戦争に突入。大不況に加え、資材不足、物価高騰。工事はまったく停滞という最悪の事態を迎えます。人も物も金も、すべてが不足する苦難の中、一生を治水に捧げた天竜の巨星「金原明善」の献身的な事業や没後も金原治山治水財団による寄付、農商務省の竹山祐太郎(後の静岡県知事。国営天竜川農業水利に尽力)の計らいで秋田や新潟からの「農業増産報国隊」総勢2,576名が従事し、10日間で8kmの幹線水路を掘りぬいたのです。

天竜川から初めて通水された用水(昭和19年)

天竜川から初めて通水された用水(昭和19年)

「来た、来たー!天竜の水が来たーっ!」

昭和19年7月ついに磐田用水は完成。感動の通水式を迎えます。

江塚勝馬により石碑に刻まれた一句

「水滾々 七千町歩 豊の秋」

は、「金は出したが水はコンコン」と嘲われた明治の先人たちへのあらん限りの感謝を込めた返歌と言えるでしょう。
また、江塚勝馬はこうも記しています。

「最初にみた処女水のみが尊いのではない。数百年後にこの用水路に流れる水にも、これを引くために創業時代の関係者の血と汗と涙が溶け込んでいるのである。」

その後、発電や工業水、上水道など天竜川の総合開発事業により船明ダムからの直接導水が可能になる国営農業水利事業が完了したのは、昭和59年のことでした。

実に犬塚祐一郎の「社山疎水」案から一世紀半、約150年の歳月が流れていたのです。

今の磐南平野は県下一の穀倉地帯です。洪水からも渇水からも解放されて、用水も滞りなく配水されています。

決して忘れてはならないこと・・・
それは、私たちの住んでいる磐南平野は、先人たちが命をかけて築いてきた水路や堤防(歴史的資産)によって支えられている創造された大地であるということです。
もし、この水路が地震などで破壊、あるいは老朽化すれば、私たちはたちどころに明治時代以前の水害に悩み、貧困に苦しむ農村に戻ってしまうのです。

私たちが生きる、あるいは次世代が生き延びるための真の資産とは何でしょうか。
先人たちが成し遂げたこの偉大なる業績に思いを馳せつつ、そのことを皆で考えませんか。
・・・磐南平野が豊かであり続けるように。

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