用水の歴史

土地の改良編<地形的宿命>

縄文時代、この磐南平野の大部分は海の底でした。
その後、弥生時代になると徐々に海面が下がり陸地は広がりますが、江戸時代まで沼や湖(潟湖:せきこ)として水域が残され、何回かの地震で地盤が隆起してようやく潟湖は姿を消していきます。

昔、水域であったところは今も海抜0~1mと平坦のため、昭和になるまで劣悪な湿田で人々は洪水に悩まされていました。
大雨が降ると水浸しで普段でも田んぼの悪水(排水)に悩まされ、今之浦湖の跡地(磐田市)では、十年一作(十年に一度しか収穫できない)と言われたほどでした。

その一方、洪水や悪水と矛盾するようですが、太田川や原野谷川の水量が少なく水不足にも悩まされていました。村々は競うように水路を引いて水田を増やし、少ない水を求めて村同士が争う深刻な事態でした。

特に下流では、洪水と水不足に悩み、農民たちが何百年にわたって苦難を強いられてきました。
洪水を防止するためいくつか堤防が作られましたが、その堤防をめぐっても大きな紛争になりました。

浅羽は「浅羽一万石(※)」といわれるほどの米どころでしたが、こんな唄も詠まれていたことから、水不足の中での過酷な労働により米作りが支えられていたことがわかります。 ※一万石=一万人が一年生活できるだけのお米の量

「私ゃ しがない 浅羽の娘 化粧するにも水がない」
「奉公するにも浅羽はおよし 浅羽早起きはねつるべ」


上流でも同様に、川の水量の限界があり水不足に悩まされていました。まだ水路を作る技術が未熟だったため、洪水の起こりやすい大きな川の周辺を避け、小さな川の近くが田んぼを作る土地として選ばれました。人口が増えると水田も増えていくため、小さな川では田んぼに引く水量が足りなくなり、やはり水争いが頻発するようになりました。

江戸時代に入ると戦国時代が終わり平和になったことや技術が発達したことで、日本国内各地で大規模な用水が開発されていきました。この磐南平野地域でもいくつか中規模な用水が作られました。また、大きく蛇行していた太田川と原野谷川を直線化し合流させて、仕切った川をため池として利用しました。しかし、大規模な用水網が築かれることはありませんでした。領地が入り乱れていたことに加え、川の水が少なすぎたこと、そして土地が平ら(あるいは凹み)すぎていたことが原因でしょう。
そして、引き続き毎年のように水争いが起きていました。多くの記録も残っています。
浅羽地区では闇夜に上流下流で竹槍を持って武装した農民数百名が向かい合ったり、明治時代になっても上流の村を襲って警官が動員されたこともありました。

しかし、そんな劣悪な環境から、様々な先人達の偉業により急激に近代化に向けて動き出します。

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